ヴルタヴァ川のカモメのように
中欧の麗しの国チェコの点描
飯島 周(日本チェコ協会会長・跡見学園女子大学名誉教授)
はじめに
増田幸弘さんが一家を挙げてプラハに移住した。犬やウサギまで引き連れて。動物の航空運賃は1キロあたりいくらで計算するのだそうで、その結果、チェコでの評判では、増田家のウサギは世界一高価なウサギになっている、とのことだ。そのウサギ様の尻尾の先の毛の何本か分ぐらいは貢献したつもりだが、増田家のメンバーはチェコの風土にうまく順応してくれるだろうか? そんな心配があったけれども、プラハから届いた第一報によれば、一家は無事に新生活に入り、豊かな自然のなかで現地の暮らしを楽しんでいる様子である(とくにビールとワインを。文字通り満喫しているらしい)。一先ず安心、というところだろうか。
だが、まだ問題が残っている。それはこちらだけの話だが、なにかチェコと関係するエッセイを寄稿して欲しい、という注文に応じなければならない。
考えてみると、増田さんとのおつき合いは、10数年前の『PRAHA―カフカの生きた街―』の制作からで、この街、およびチェコへの思い入れは当時から強く感じられた。定住したことはなく、部外者としての観察だが、私自身のチェコ体験もすでに40年ほどになっているので、実にさまざまな記憶が頭のなかに眠っている。それらを次々に呼び起こせば、それなりのことを語ってくれるかも知れない。それに、「私の精神史」のようなものがあるとすれば、チェコに重要なひとつの章を形成することだろうから、自分自身のためにもなりそうだ。
ただし、思い出の性格もいろいろで、すぐに目を覚ましてくれるものと、そうでないものもあるし、楽しいもの、苦しいもの、好きなもの、嫌いなもの、当たりさわりのあるものないもの、すでに夢か幻に近くなっているものさえある。そんなわけで、一定のテーマや順を追って、というわけにはいくまい。気楽に、思いつくままに、順不同に、いわばヴルタヴァの流れの上を翔ぶカモメのように、自由に移動してみよう。
言うまでもなく、この川はドイツ語名のモルダウ(Moldau)で世界的によく知られているが、チェコ南部のドイツとオーストリアとの国境にあるシュマヴァの森に源を発し、チェスキー・クルムロフのあたりでは曲がりに曲がりくねって北に進み、草原を越えてゆるやかにプラハ市内を貫流した後、ムニェルニークでラベ川と合体、さらにドイツに流れ込んでエルベ川と改名し、末は大河となって北海に注ぐ。瀬もあれば淵もあり、水量も川幅も、沿岸の景色も、岸辺を行く人たちの心も、刻々と変化する。
このエッセイが、そんな大河にまで発展する見込みは露ほどもないけれども、ラベ川との合流地点あたりまでは行ってみたいものだ。とにかく、行きつ戻りつしながらも、スメタナの名曲の調べに乗ったような気分で筆を進めることができれば何よりである。
ここでもうひとつ、チェコの国歌のことに触れておきたい。近代的な体系として、国歌(と国旗または国章)を持たぬ国があるだろうか。少なくとも、国際的な場面での自己確認の手段を考えるとき、無国籍の立場を選択せぬ限り、国歌(と国旗)を中心にした人間集団を想定するのがもっとも自然であろう。ただ、歌詞の内容が気になる場面がある。「君が代」問題はさて置き、王政賛美のイギリス国歌と革命歌そのもののフランス国歌は、まさに対照的な感がある。そしてチェコの国歌『わが祖国はいずこ』(Kde
domaov muj)は、もっぱら自然の姿を歌い、特別なイデオロギーは示されない。
この国歌は、19世紀の作家ティル(J.K.Tyl、1808-1856)のドラマ「春の祭フィドロヴァチカ」(Fidlo
vacka)の劇中歌から採用された。歌詞は通例1番だけで、スロヴァキアと一緒の時代には、それに直ちに続いてスロヴァキア国歌が演奏された。「おだやかに」(mirne)と指定されたチェコの国歌の旋律が「決然と」(rozhodne)に急転してスロヴァキアの国歌に移るは、とくに印象的であり象徴的でもあった。
歌詞はもとより韻文であるが、試訳すると次のような意味になる――
わが祖国はいずこ わが祖国はいずこ
水はさざめき野を流れ行き
松風さやかに岩山に鳴り
園には春の花輝きて咲き
地上の楽園を目のあたり
これがまさに麗しの国
チェコの国 わが祖国なり
チェコの国 わが祖国なり
たしかにチェコの風景は、自然と人為全般にわたって美しいと感じることが多い。客観的にも、この小さな国内に13ものユネスコ文化遺産が指定されていることで承認される。
しかし、この国の人たちが経験して来た歴史は、決して安易なものではない。とりわけ20世紀初頭から現代までを考えても、数多くの体制の変化と浮沈があった。その辛酸の跡は各所にひそやかに残されている。自身での認識のほんの一例について言えば、カレル大学哲学部の建物と「芸術家の家」(ルドルフィヌム)とに面する小さな区画は、1967年に初めてプラハの敷居を踏んだときには「赤軍兵士広場」だったが、今は「ヤン・パラフ広場」と改称されている。
「赤軍兵士」とは、ナチス・ドイツの保護領として圧制に苦しんでいたチェコ国民を1945年に「解放」してくれたソ連軍兵士のことであり、「ヤン・パラフ」は、1968年の「プラハの春」のワルシャワ条約機構軍(実体はソ連軍)による圧殺に抗議して焼身自殺をしたカレル大学の学生の名前である。この改称は1989年のいわゆる「ビロード革命」の成功後になされたが、「ヤン・パラフ広場」というささやかな地名は、1918年に成立した「チェコスロバキア共和国」のナチス・ドイツによる抹殺、ソ連の支配による社会主義体制の強制、苦難の末の民主化の成功などを背景にしているわけで、浅からぬ意味を持つ。ただし、20世紀もすでに過去になりつつある現在、その意味も次第に深みを失うことだろう。
この国の首都は、言うまでもなく、「諸都市の母」「百塔の都」「北のローマ」などの別名のあるプラハである。(ヨーロッパの中世の町並みがこれほど広範囲に保たれている例は少ない)そして「黄金のプラハ」の陰には「黒いプラハ」も潜んでいる。さらに、プラハだけを見てチェコを語ることはできない。各地方では、住む人たちも言葉もそれぞれ特徴があるようだ。わずかな体験ではあるが、それらについても書く必要があるだろう。
学問や芸術の多くの分野で、国家の枠を越えて、いわば人類文化に大きく貢献してきたこの国の人たちには、自らがヨーロッパの中心、すなわち中欧に存在する、と考える傾向が見受けられる。社会主義体制を脱却し、EU加盟を達成してからは、その傾向がさらに加速しているように思われる。そして、「古き良きボヘミア」の頃からの伝説である「国外修業」は旧に倍する勢いである。来日するチェコ人の数も急増し、日本企業のチェコ進出と呼応して、両国の人的交流はますます盛んになっている。チェコに関する知識や情報を求める人も、驚くほど多くなった。拙文が、その方面で多少なりとも、お役に立つようならば、と考えている。
ついでながら、カレル・チャペックの『イギリスだより』にのヴルタヴァ川のカモメが登場する。このカモメは、スコットランドから北海をよこぎって、ハンブルクからエルベ川をさかのぼるのだが、実際にヴルタヴァ川にはカモメの仲間が多い。あるとき、岸辺に止まっているカモメと目を合わせたことがある。声をかけると、軽蔑のまなざしを投げかけ、ぷいと横を向いて飛び去ってしまった。ヴルタヴァのカモメは、あまり人なつっこくはないらしい。
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